今回、二週にわたってお送りするゲストは、サンパウロ新聞福岡支局長の吉永拓哉さん。吉永さんの著書『ヤンキー記者、南米を行く』を中心にお話を伺います。
元・暴走族副総長で少年院生活を送った吉永さんは、父親の命令で、なぜか"南米武者修行"の旅へ"(『ヤンキー記者、南米を行く』より)
南米に行くきっかけは、少年院を出たが、何をしていいかわからなかった頃、父親に「南米に行ってこい」と言われこと。
エクアドルで、語学の重要性を認識し、スペイン語教室でスペイン語を学び、バナナの収穫の仕事をはじめた。3ヶ月間、重さ50kgもあるバナナの房をスポンジでできたぶ厚いビート板のような物をクッションにしてバナナを受ける仕事をし、ペルーでは、民芸品店で働き、ブラジルのハワイと呼ばれるマセイオへ。ブラジルはポルトガル語なので言葉がわからないため、不満ながらもホテルの雑用、清掃作業をしていたが、プライドを持って仕事をする現地の労働者を見て、考え方が変わった。
3年間の南米生活の後、帰国。日本の流行は目まぐるしく変わっていて、浦島太郎状態に。すっかり日本社会と肌が合わなくなっていた。はじめは父親に「南米に行ってこい」と言われたのがきっかけで、行かされたものだったが.....。
「大地の広さ、大自然。南米が大好きになっていた。日本はどこか"枠の中"でやっているイメージで、なじめなかった。今でも南米では、言葉は半分だけど、人間対人間、心と心で話せる。元・暴走族だとか、どこの大学を出たとかは関係ないんです。」(吉永)
そして、再びブラジルへ。紆余曲折を経て、サンパウロ新聞の門を叩く。編集局長に1600字以内で作文を書いてくるよう言われ提出。その作文を認められ、晴れてサンパウロ新聞記者へ。
「文章力は反省文で鍛えたんですね。それと、南米武者修行へ旅立ってから日記をつける習慣がついて、毎日、原稿用紙一枚分は書いてました。きっと、難しい四字熟語を知らないから使えないので、わかりやすいんですね。」(吉永)
「強面だし信用がなかったので、見習い期間3ヶ月間は誰よりも早く出社し、土日は休まないようにした。」(吉永)
その結果、編集局長の信頼を得始め、記事を書いたり、取材をするように。会って印象的だった人は、日本から訪れた当時の小泉純一郎首相、田中康夫長野県知事、フジモリ元・大統領。
ブラジルではどんなに奥地でも必ず日本人移住者が暮らしている。取材中に移住者達の過去の貴重な話が聞けるのもいい刺激になる。日本人移住者が最後のひとりになるまで記事を書き続けたい。そして、福岡支局長として日本と南米の架け橋になろうと決心。(『ヤンキー記者、南米を行く』より)
「どんな奥地の小さい村にでも日本人移住者がいます。移民のおじいちゃん、おばあちゃんの話を聞いて、移民の存在、名前、証を残したいと思ってます。」(吉永)
■吉永拓哉
1977年福岡県生まれ。『サンパウロ新聞』福岡支局長。中学時代はヤンキーで、暴走族副総長として暴れ回り、19歳で少年院送りに。退院後、1997年に南米大陸放浪に出発。エクアドルのバナナ農園、ペルーの民芸品店、ブラジルのラブホテルで働く。2004年にブラジルの永住権を取得し、邦字新聞『サンパウロ新聞』記者となる。現在は福岡支局長を務めるかたわら、若者のブラジル留学を支援する「NPOチャレンジブラジル」や、少年院出院者をサポートする「セカンドチャンス!」のメンバーとして活動している。著書に『ぶっちぎり少年院白書』(二見書房)、記者として取材・執筆した『100年 ブラジルへ渡った100人の女性の物語』(サンパウロ新聞社・編/フォイル)がある。
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